周回遅れの諸々

90年代育ちのオタクです

「オーフェン・無謀編」の例の回で桃缶が意味するもの 原作とコミカライズの違い

矢上裕の漫画「魔術士オーフェン・無謀編」を毎回楽しみにしてる。原作は秋田禎信の小説「魔術士オーフェン」……の外伝「無謀編」。コミカライズ担当の矢上は、「オーフェン」と同じ90年代に「エルフを狩るものたち」でブレイクした作家だ。


元々両者の無軌道ギャグファンタジーぶりをもって相性ピッタリだ、という声は多かったけれど、それだけではない。一言で言って、このコミカライズは漫画がうまい。小説だからできること、漫画でできないことを心得ていて、原作を巧みに料理している。25年。幾度となく生み出された「オーフェン」のメディアミックスの中でもまず一番の出来だ、と言っていい。と、この辺は以前にも書いた。


sube4.hatenadiary.jpsube4.hatenadiary.jp


単行本2巻では「無謀編」随一の人気エピソード「思えば遠くへ来たもんだ」が収録された。この回でも矢上の技巧は如何なく発揮されている。


無謀編は時系列としては本編より以前の話。主人公オーフェンは元々、将来を嘱望されたエリート魔術士だった。それが行方不明の姉を追って五年。放浪の旅を続けるうちにすっかり荒んでしまう。無謀編では地方都市でチンピラ借金取りに身をやつしている。


「思えば~」は、オーフェンがヒロイン:コギーらとともに宿の屋根の上にいる場面から始まる。月に一度の「爆安缶詰市」の買い出しに備えて気合を入れるため、ときの声を上げていたのだった。が、気合が入りすぎて思わず足を踏み外し、屋根から落下して気を失う。目覚めると、そこは過去の世界だった。


夢の中で、彼は放浪に費やした五年間に訪れた場所、出会った人たちを巡り、いずれかのタイミングでやり直す機会を与えられる。どうせ未来ではロクなことがない。それを知っているから、姉の捜索をあきらめ、旅先で出会ったハルという娘と結婚してしまいそうになる。


最終的には、オーフェンはありえたかもしれない過去を捨て、現在へと帰還する。原作フェンはこう語る。

(分かってる。そんなこと、誰に言われなくたって、答えなんて分かってることだ)
「でも、そうだね」
なんとか微笑むのだ。それを自分に命じて、つぶやく。
「そうだね。実際、あの時だったら、そういう決断をしても良かったんだ。本当に。本当に、そう思う……」
「…………?」
彼女は、理解できなかったのだろう。ただ不安げに眉根を寄せて、胸元の布を両手でつかんで身を縮めていた。それを見つめ――続ける。
「でももう……既にここは、ぼくがいるべき未来じゃないから――とどまることはできない。ごめん」


対して漫画では、ハルと向き合っている時、ポケットの中の硬い感触に気づく。取り出してみるとそれは桃の缶詰だった。掌の中の物体を見てオーフェンは何を思ったのか、「思い出しちまったんだ」「帰るべき場所を」と言い放ち、現実へと帰還する。目覚めたオーフェンにコギーはあるものを渡す。はたして夢で見た桃缶は、オーフェンが気絶している間に、コギーが代わって買ってきてくれたものであった。……


実は、原作でもコギーが桃缶を買ってきてはくれる。ここから「オーフェン」ファン――とりわけオーフェン×コギーのカップリングを愛する人たちの間では、桃缶は特別な意味を持つようになる。後の「スレイヤーズVSオーフェン」で主人公の大好物みたいな扱いになっていたのは、作者のちょっとしたファンサービスだろう。



ただしそれは、最後にオーフェン夢から醒めて初めて目にするものだ。過去をやり直すことをせず現実に帰還するというその選択には、桃缶は全く関係しない。


矢上はこの桃缶の登場を前倒しして*1、ストーリーにより深く絡ませている。この改変により、漫画版は原作より「桃缶」の意図がはるかに明瞭になった。つまり、「オーフェンはコギーたちこの五年間で出会った人たちとの縁をなかったことにしたくないから過去をやり直さなかった」というものだ。桃缶は彼らとの縁の象徴である。


f:id:megyumi:20190612191735p:plain


「無謀編」という物語に限っては、この改変には花丸をあげてもいい(超上から目線)。何を隠そう、原作刊行時にこのエピソードを読んだ時、結末に至る過程に物足りなさを感じていた私だ。主人公の選択に、本人の意志よりも「そうはゆっても現実に戻ってこなきゃこの話終わっちゃうし……」というご都合主義を見てしまっていた。しかし、本編第四部までを読み終えた後だと、もう少し違った感想を抱く。


原作読者なら知っての通り、主人公氏(=秋田作品の主人公?)はとても規範意識の強い人物だ。「死人を生き返らせてはならない」「人間は人間として生きねばならない」といった看板を彼は掲げる。これは、言ってしまえばありふれた思想ではある。特筆すべきなのは、それを守ろうとする意志がやたらめったら強固だという点で。自分の定めた規範に忠実であるためには、組織や同僚や家族を裏切ってしまえる奴だとまで言われている。


この「オーフェン」は本編全三十巻をかけて構築された人物像なんだけど、「思えば~」の「既にここはぼくがいるべき未来じゃないから」と言えるオーフェンからは、そういった未来の彼への萌芽が既に見られる。


「ここは、ぼくがいるべき未来じゃないから」誰かが現実世界で待っているから、出会いをなかったことにしたくないから、ではない。ひとえにそうすべきではないからという理由で、自分にとっての正義を選んでしまえる。それがオーフェンなのだ。夢の中で過去を顧みた彼は、誰に言われるでもなくこの境地に至った。当然、そんな生き方に幸せは待っていないだろうと容易に想像がつく。コギーが最後にくれた桃缶は、でもそんな未来にもひとかけらのご褒美は残ってるかもという希望、優しさだった。


ひるがえって漫画では、「桃缶」=コギーとの縁が一層強調されることで、規範意識の強さが人情の陰に隠れている。原作読んだけどこのコミカライズは未読という人には、「我が神に弓引け背約者」の地人兄弟の役割をコギーが演じていると言えば分かってもらえるだろうか。



今回に限って漫画の作劇が今までと変わったわけではない。コミカライズとしては相変わらず丁寧な仕事をしている。ただ、原作でもやや異色の――基本的にはパラレルワールドに近い無謀編で、明確に本編と接続されるという意味で――回である「思えば~」をやったことによって漫画版独自の味が一層強調され、原作主人公と衝突してしまった感はある、かな。


こういったことは、よくある。つまりは、メディアミックスの際のストーリーの改変によって、原作の今まで気にもとめてなかった一側面に、読者が改めて気づくというのは。その改変が成功してるかどうかというのはさして関係ない。でもまあメディアミックスはメディアミックスでうまくいってて、なおかつ原作の主人公の言動にはこういった意味を見出すことができるぞと言えるなら、そっちのほうが幸せではあるだろう。今回のように。



なお、「これはオーコギが補強されたことに不満を持つオークリ派のプロバガンダだ!」という批判が出てくるかもしれないので、私自身はオーコギ派であることをここに付け加えておきます。なにその予防線。

*1:実は漫画版ではこのエピソードの前からオーフェンが桃缶を美味しそうに食べるシーンがあるのだが