周回遅れの諸々

90年代育ちのオタクです

「シン・ゴジラ」は「ヱヴァ」よりも「エヴァ」だったのか

公開から一週間経った8月6日、池袋HUMAXで「シン・ゴジラ」を観てきた。元々、「ゴジラ」シリーズは子供の頃に「VSモスラ」「VSメカゴジラ」辺りを観た記憶が朧気ながら残ってるのと、最近ようやくテレビで第一作に触れた、というくらいの初心者なんだけど。「ヱヴァQ」と同時上映された「巨神兵東京に現る」にびびっと来るものがあって、カントクくんが一本の映画として巨大特撮物やってくれるなら超観たいなーと思ってた矢先に本作の製作が発表されて。とはゆってもこれってパイロットフィルム的な短いやつで期待膨らませて行ったらガッカリするパターンだよなーと内心予防線を張ってはいたんだけど、実際観たら期待以上の面白さだった。

 

 

ここから早口↓ 

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そもそも軍事用語政治用語ポエムが飛び交うだけで気持ちよくなっちゃう人種だし*1、どうにも実写邦画俳優の演技が苦手なのでそもそも演技を捨ててるみたいなところあるあの早口はかえってその辺りの懸念を回避してくれて助かったし、好きなことの話だと急に早口になるのがオタクって言うけど好きなことでもどもってしまうオタクとしては早口になれる人羨ましいなと思う程度には好感を抱いてるし、往時を思い出して旧シリーズリアルタイム世代のエヴァオタが全台詞を暗記しようと奮闘するも加齢によって自分より年少のオタクに学習能力記憶力で負けてしょんぼりする姿が目に浮かぶし。御用学者と鼻つまみ者のオタクの違いは役に立つかどうかではない。たとえ全体を把握していなくとも対象について邪推できるかどうかだと思ったし、色んな所轄官庁経由しないと命令を実行に移せないところとかコメディタッチではありつつ何故かかっこいいシーンに仕上がってたし、コメディタッチと云えば随所の笑いどころがハイテンションと大げさな芝居で全力で笑いを取りに来るやつじゃなくてくすっとさせるくらいのやつだったのも性に合ったし、シンゴジさんが歩く振動で屋根瓦がカタカタ揺れるシーンだけで既に名作だったし、フラグ立てたとか立ててないとか防災グッズ用意してたとかしてないとか圧倒的な力の前にそんな価値判断関係なくなぎ倒されてくのも余計なモヤモヤを感じないで済んだし、尻尾はちんこだったし、10年後の総理×10年後の幹事長キテたし、組織の頭をすげ替え可能なのが強みっていうの「オーフェン」シリーズの理想形みたいなところあったし(いつもの病気)。

↑ここまで早口 

 

さて。上で述べたように、一本の映画として、「シン・ゴジラ」が読者の事前知識や注釈などなくても成立するエンタメ作品だったことは間違いない。ではあるけれど、エンドロールが流れ切った後、まず脳裏に浮かんだのは、「俺ってこんなにエヴァ好きだったんだなあ」という思いだった。

 

エヴァとヱヴァとシン・ゴジラ 

 

新世紀エヴァンゲリオン」。その最終作「THE END OF EVANGELION」が1997年に劇場公開されてから何年かかけて、わたしはこれを消化した。いまだインターネット環境を構築できておらず、議論を交わす知り合いもいなかったため、その作業は完全にプライベートなものだった。最終的に出した結論は顧みるにさして独創的なものではなかったけれど、今もわたしの中にしっかりと根付いている。つまりは「でも、もう一度会いたいと思った。その気持だけは本当だと思うから」というアレを文字通り受け止める、ということ。そこにややこしい解釈は必要ない。

 

同時に、オタクの習い性として、庵野秀明ガイナックスが制作に関与した他作品にも触れた。「トップをねらえ!」「トップをねらえ2!」「ふしぎの海のナディア」「オネアミスの翼」「フリクリ」「彼氏彼女の事情」「ラブ&ポップ」「おるちゅばんエビちゅ」「まほろまてぃっく」「忘却の旋律」「放課後のプレアデス」「Re:キューティーハニー」 「式日」……あ、最後のは観てなかったか。さておき、この中でも「フリクリ」「プレアデス」などは特に、自分の中で大切な位置を占める作品となった。しかしこれらを好む感情は、あくまで「エヴァ」とは無関係のものだ。というか最後の方は「エヴァガイナックス」だから手を出したわけですらない。そしてそれは、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」シリーズも今のところ同様である。「序」も「破」も「Q」も初日に観に行ったけれど、わたしの中のエヴァ厨は心動かされなかった。

 

 

然るに、「シン・ゴジラ」だけが何故こうも20年前の感情を喚起させるのか。何らかの要素が「エヴァ」を連想させるから、いうのが真っ先に思いつく理由だけれど、「シン・ゴジラ」と「エヴァ」は似ているのか?

 

*1:子供は台詞を理解できない? 大人も初見ではそんなに理解できてないから大丈夫

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「ちえりとチェリー」 おばあちゃんちでの半日の冒険を描いた人形アニメ

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池袋で「シン・ゴジラ」を観た後、ハシゴをした。映画館に足を運ぶこと自体年に1回あるかないか、という自分にしては珍しいというか初めてのことだ。2本目は、渋谷ユーロスペースで上映中の「ちえりとチェリー(同時上映:チェブラーシカ、動物園へ行く)」。脚本家として活躍している中村誠監督による、郷愁あふれるパペットアニメーションだ。お目当ては主演の高森奈津美

  


ちえりは小学6年生の女の子。幼い頃に父を亡くし、母親と二人暮らし。
母親は仕事に忙しく、ちえりの話し相手をしてくれない。
そんなちえりの唯一の友人が、父の葬儀の時に蔵で見つけたぬいぐるみの“チェリー”だった。
チェリーはちえりの空想の中では父親の代わりにちえりと話し、遊び、助言し、守ってきた。
ある日ちえりは、父親の法事のため、久しぶりに祖母の家にやってくる。
そこでちえりを待ち受けるものとは…… 空想と現実の狭間で、不思議な冒険が始まる。

 

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兼役満載の「リルリルフェアリル」声優別キャラクター一覧

30人未満の声優で、80人以上のキャラクターを演じる(2クール終了時点)。そんな兼役上等な女児アニメ「リルリルフェアリル」のキャストらがそれぞれどのキャラを担当しているのか、整理してみました。

 

  

花守ゆみり(1997)

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内田彩(1986)

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日高里菜(1994)

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楠田亜衣奈(1989)

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石川博品「メロディ・リリック・アイドル・マジック」 国民的アイドル VS 野良アイドル

子供があくまで子供のまま大人の世界にコミットすることを求められ、しかし「仕事」をしていく中で否応なしに成長する/させられる*1。これを、アイドルが描かれた物語の一つの類型だと考える。その場合、子供の世界の狭さ、大人の世界の広さを強調したほうが分かりやすくはなる。現在、単体の経済圏を構築していると言えるまでに定着しているAKBと彼女たちを取り巻くアレコレの規模は、そのようにも作用している。

 

AKB以降、リアルでもフィクションでも彼女たちの影響を受けたアイドルが多く生まれた。それらは、90年代のライトFTの多くで「ドラクエ的なものとどう違うか」が肝であったように、いかにAKB的なものと差別化していくかがポイントとなっている。解答の一つが、アイドル活動において大人がほぼ介入しない、μ'sに代表される「スクールアイドル」だ。この「メロディ・リリック・アイドル・マジック」は、AKBっぽい国民的グループに、スクールアイドルっぽい人たちが挑む物語、とひとまずはまとめてしまっていいだろう。舞台は秋葉原に対して? 東京都中野区をモデルにした、沖津区*2

 


(何でもいいから手に持ちたい……楽器とか、金属バットとか……)
小さなマイクひとつ持ってたくさんの人の前に出ていくのは勇気がいる。人並み外れて楽器がうまいとか、ここに集まった全員が親のかたきであるとか、なんでもいいから彼らの前に立つ根拠が欲しいと思った。


「沖津区アイドルはいつも着ている制服でステージに立つ。いくらLEDの連中がチェック柄のスカートやブレザーふうのジャケットを身に着けようと、そこに制服が本来持つかがやきはない! その制服を着て学校生活を送るアイドルたちの制服に対する愛着、彼らがその制服を着てすごした年月の重み、それこそが制服に真のかがやきをもたらすものなのだっ! ――あ、後半は故水野ハルヲ先生による警察官の制服に関しての主張だった」


「マネージャーさん……? じゃあプロデューサーとかもいるんですか?」
なちゅりは目を丸くして口元を手で覆った。芝居がかった仕草だったが、かわいらしかった。
(このベタな感じ、やりきってるからすごいよなあ……)
現代において本当の清純派などいない。そんなことはいうまでもないが、それでもなお、その存在を信じたがる者がいて、それに応えようとする者がいる。清純派アイドルとはそうした心のかよいあいの総称であると下火は考えていた。


アイドルが歌って踊るものだと誰が決めたのかはわからないが、そのことがアイドルたちを追いこみ、苦しめ、試していた。残酷で、うつくしかった。

 

*1:これには当然異性との恋愛も含まれていて、例えば背景が殆どないHENTAIのキャラから始まって、何故か芸能界入りし、最終的に男なんていらねえよ、夏、という心境に至った亜美シリーズの軌跡は必然だったんだろうか

*2:現在取り壊しが決定している中野サンプラザも聖地として登場する

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エンタメ寄り長谷敏司の魅力 「円環少女」「ストライクフォール」他

長谷敏司が久々にラノベレーベルで新作を発表! ってことで、エンタメ寄りの長谷作品の魅力とか特徴とかについてつらつらと語る。

 

今も連なるエモさを感じる「楽園」「フリーダの世界」

長谷敏司という作家は、2001年にスニーカー大賞金賞を受賞して世に出た。

 

デビュー作の「楽園」は、一千年の間、二大陣営が戦争を続けている時代。敵がひた隠しにしている惑星へ、調査のために一人の兵士が降り立つ。しかしそこには敵の兵士と幼い女の子がいるだけで……。というのがあらすじ。

 

最初に読んでから暫く経過してから知ったのだけど、本作は、アニメーション映画「ウインダリア」(1986)の主題歌である、新居昭乃「美しい星」が重要なモチーフとなっているとか*1。こういったサブカル的なものもそうだけど、冷戦構造とか学生運動とか、80年代まではまだ辛うじて残っていた要素とか雰囲気とかいったものが長谷作品には多く含まれている。

 

 

「楽園」の1500年前の世界を舞台にしたのが、2002年に発表された「天になき星々の群れ フリーダの世界」だ。突然の占領に混乱する中で市民の群集心理が浮き彫りになっていき、何不自由なく育ったどこまでも楽観的な少女と、暗殺者の少女、友人として出会った二人の倫理が対立する。

 

仮タイトルが「女子校スナイパー」で、著者は「これからは百合が来る」との思いから執筆したそうで。当時は「マリみて」が一大ムーブメントを起こしていたしまあ分かるのだけど、今読んでみるとサツバツキルミーベイベーという印象を抱いてしまい、時間というものの残酷さを感じた。あとヒロインがメガネ。少女暗殺者。ク、クラエス

 

この2作から今に至るまで氏の小説に共通しているのは、文章からほとばしるエモさだ。広大でゆるぎない世界と、どこまでも一個人にしか過ぎないもろい人間。この二者が衝突した時のきしみを描くことが青春物の要件なら、長谷作品は全て青春小説だとも言える。男も女も老いも若きもみんな人間味に溢れていて、感傷を隠そうとしない。そんな彼らの生き様は、読者の情感を直球で揺さぶってくる。

 

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