周回遅れの諸々

90年代育ちのオタクです

石川博品「メロディ・リリック・アイドル・マジック」 国民的アイドル VS 野良アイドル

子供があくまで子供のまま大人の世界にコミットすることを求められ、しかし「仕事」をしていく中で否応なしに成長する/させられる*1。これを、アイドルが描かれた物語の一つの類型だと考える。その場合、子供の世界の狭さ、大人の世界の広さを強調したほうが分かりやすくはなる。現在、単体の経済圏を構築していると言えるまでに定着しているAKBと彼女たちを取り巻くアレコレの規模は、そのようにも作用している。

 

AKB以降、リアルでもフィクションでも彼女たちの影響を受けたアイドルが多く生まれた。それらは、90年代のライトFTの多くで「ドラクエ的なものとどう違うか」が肝であったように、いかにAKB的なものと差別化していくかがポイントとなっている。解答の一つが、アイドル活動において大人がほぼ介入しない、μ'sに代表される「スクールアイドル」だ。この「メロディ・リリック・アイドル・マジック」は、AKBっぽい国民的グループに、スクールアイドルっぽい人たちが挑む物語、とひとまずはまとめてしまっていいだろう。舞台は秋葉原に対して? 東京都中野区をモデルにした、沖津区*2

 


(何でもいいから手に持ちたい……楽器とか、金属バットとか……)
小さなマイクひとつ持ってたくさんの人の前に出ていくのは勇気がいる。人並み外れて楽器がうまいとか、ここに集まった全員が親のかたきであるとか、なんでもいいから彼らの前に立つ根拠が欲しいと思った。


「沖津区アイドルはいつも着ている制服でステージに立つ。いくらLEDの連中がチェック柄のスカートやブレザーふうのジャケットを身に着けようと、そこに制服が本来持つかがやきはない! その制服を着て学校生活を送るアイドルたちの制服に対する愛着、彼らがその制服を着てすごした年月の重み、それこそが制服に真のかがやきをもたらすものなのだっ! ――あ、後半は故水野ハルヲ先生による警察官の制服に関しての主張だった」


「マネージャーさん……? じゃあプロデューサーとかもいるんですか?」
なちゅりは目を丸くして口元を手で覆った。芝居がかった仕草だったが、かわいらしかった。
(このベタな感じ、やりきってるからすごいよなあ……)
現代において本当の清純派などいない。そんなことはいうまでもないが、それでもなお、その存在を信じたがる者がいて、それに応えようとする者がいる。清純派アイドルとはそうした心のかよいあいの総称であると下火は考えていた。


アイドルが歌って踊るものだと誰が決めたのかはわからないが、そのことがアイドルたちを追いこみ、苦しめ、試していた。残酷で、うつくしかった。

 


褒メラニアンのマネージャー

本作では、主人公とヒロイン……というより男女のダブル主人公の視点が交互に切り替わっていくという、同作者の「ヴァンパイア・サマータイム」と同じ手法をとっている。

 

 

吉貞ナズマは、少々感じやすい高校生だ。新たな生活に対して「住人は高校生だけというこの寮で夜になれば誰かの部屋に集まって夜遅くまでおしゃべりしたり、日曜日には中庭に出てピクニックみたいな昼ごはんにしたり、試験前にはみんなで協力したりというのも悪くないと考えた」といったような展望を抱く、やや乙女ちっくなところがある。センシティブなところといかにも思春期男子らしいスケベなところを併せ持つのが石川主人公だけど、ナズマは特にスケベなところも多分に叙情的というか。ラッキースケベに遭遇して「純白のパンツがまるでナズマに向けられたものののように公開されていた。彼女が体を揺するたび、張りつめた布地にうっすら斜めのしわが走った。」という感想を抱いたりする。

 

元来、女性/女性の身体に対して畏敬の念のようなものを抱いている彼は、先輩に「アイドルはとにかく褒めて支えてやれ」とアドバイスされ、アイドルグループのマネージャーとして、ドルサーの王子としての才能を開花させていく。

 









 

 「カマタリさん」の主人公タイチのように、「あの……俺もいいと思う、その髪型」の後に ……フ、フヒヒって照れ隠しの半笑いが入って デデーン、アウトーともならなかったし、褒め殺しの揺り戻しがいつ来るかいつ来るかと怯えていたのだけどそうならなかったのは、流石ドルサーの王子というかアイドルの魔法というか。

 

 

沖津区の火薬庫アイドル

 

尾張下火(アコ)は、国民的アイドルグループ・LEDの熱狂的なファンだ。無口で、普段はそんなことをおくびにも出さないが、腹の中ではいつも愉快なことを考えている。傍から見ればシリアスな場面でもついつい面白いネタが頭に浮かんで吹いてしまう、というのは現実ではありがちだけれど、この小説では下火をそういうキャラとして設定することで、笑いの絶えない明るいお話とすることに成功していた。

 


「さっきから聞いてて、アコが何にもできないみたいな感じになってますけど、ホントは何でもできますから。歌もダンスもうまいし、作詞もできるし、寮の先輩からはかわいがられてるし、同じクラスのやつらからはリスペクトされてますから」
そういって彼は下火に目配せをした。
(また褒める……褒めラニアンか!)
下火はいつになく雄弁な彼を少しドキドキしながら見つめた。
「それに僕、思ったんですけど、あなたはアコのことを下に見てますよね。家族っていうより、保護する対象って感じで。そういうのが欲しかったら、ポメラニアンでも抱っこして余生をすごしてくださいよ。一人の人間をそういうふうにあつかうのはやめてください」
(まさかのネタかぶり……)

 

 メインキャラが男2女2のアイドル物

 

下火ともう一人のヒロイン、アーシャがメンバーとなり、ナズマはマネージャーとして、ナズマの幼なじみ(♂)の津守国速がプロデューサーとして参加。この4人で沖津区発のアイドルグループとして、「メロディ・リリック・アンド・チューン」略して「メロリリ」が結成される。

 

メインの登場人物が男2女2というのは、アイドル物では珍しい。どちらかというとバンド物でよく見られる構成だろう。4人はそれぞれボディタッチなんかも多く、にわかにドロドロしてきそうな気配もあるんだけれど、今のところはさわやかな仕上がりとなっている。その辺りの邪推に応えたのが上の文章なのか。

 


あの校舎の中でいまのようにアーシャの肩を抱いていたら変な目で見られる。ふつうに生きていれば、アーシャのように泣くこともあるし、ナズマのようになぐさめられることもあるはずだ。これがふつうだとナズマは胸を張って言いたかった。

 

それともアイドルとはマネージャーにとってもプロデューサーにとって等しくいつか自分のものでなくなる存在であって、グループ内の恋愛沙汰とか(笑)ということなのか。

 

同作者の演劇ラノベ耳刈ネルリと奪われた七人の花婿」において、ともかくも劇をやっている間は主人公とヒロインの距離は縮まっていた。しかし、「メロリリ」の場合は逆で、普段は近すぎるくらいのナズマと下火も、下火がステージに立っている間は断絶されている。下火は一度きりの学園演劇の主役ではなくアイドルだからだ。この巻で既に別れの気配は漂っているけれど、2巻以降はどうなることやら。

 



 

アイドルとはなんぞや

 

上のほうでバンド物、と書いた。メロリリを始めこの作品で登場するアイドル観に、インディーズバンド、ロックバンドの、特に過激な方向性のそれ*3を感じる人は少なくない。多分著者が「カマタリさん」で、シド・ヴィシャスを尊敬する少年を主人公に据えたくらいそちらに傾倒している、ということも大きいのだろう。演劇では乱闘が起こり、野球では乱闘が起こり、アイドルのライブでは乱闘が起こる。それが石川博品の、メロリリの世界観だ。

 


「それって具体的にどういう感じの音楽なの?」

ナズマがたずねると、国速は手の中でマウスを転がした。

「速くて重くて、暴れられるやつだ」

 

その攻撃的なヒールとしてのスタイルでもって、正統派のLEDをどこまでもdisっていく。その様子はThe・ショービジネス!って感じで楽しいけれど、しかし彼女たちはそれでもロックバンドでもラッパーでもなく、アイドル以外の何物でもない。では、アイドルとは一体何なのか……? 根本的なところに迫るその答えは、実際に読んで確かめてもらいたい。

 

*1:これには当然異性との恋愛も含まれていて、例えば背景が殆どないHENTAIのキャラから始まって、何故か芸能界入りし、最終的に男なんていらねえよ、夏、という心境に至った亜美シリーズの軌跡は必然だったんだろうか

*2:現在取り壊しが決定している中野サンプラザも聖地として登場する

*3:どれ?