「魔術士オーフェン」は銃の存在するファンタジー世界をいかに描いたか
銃は、大陸でも類を見ない、強力な兵器のひとつではあった。が、最強ではない。便利ですらないかもしれない。数発撃つごとに暴発の危険性は高まり、さりとて一発目から危険がないわけでもない。故障も多い。それでもなお、この武器は騎士たちの誇りであり続けた。大陸の治安を守る者だけが使うことを許された聖なる武器。
銃器について。
なんでかわたしは、イスラエルに惹かれるみたいです。
そんなわけでアサルトライフルといえばTAR-21です。
ディスカバリーなチャンネルの、最強兵器がどうのといういつものやつで紹介された時、現地の人がアメリカ人の紹介者に試射させて「へー、アメリカ人が撃ってもわりと的に当てられるもんだネー」的な素敵コメントしていたのが印象的でした。
そして彼いわく、「連射性能はもちろん良いよ。まあカタログスペック的にはね。でも実際ライフルを使う時にフルオートで撃つ奴はいないだろ。こいつが本当に優れてるのはまず撃ちたい時に必ず弾が出ること。そして遠すぎない距離で当てやすいこと」
これで学んだってわけではないですが(この番組見たの最近ですしね)、わたしが現実性を感じる銃器のスペックっていうのは、そのあたりが一番ピンときます。
彼らにとっては現実性どころか現実ですから、単に感心して済むような話でもないんでしょうけどね……
「刀剣や魔法が主な攻撃手段である作品では、銃火器は不当に弱く描かれているッッッ」というのはよく聞く話ではある。「現実的に」考えればそういう傾向もあるかな、とは思う。銃が「真っ当に」強い作品としては人類最強の範馬勇次郎が、腕っこきのハンターの銃弾に気絶させられた「グラップラー刃牙」が真っ先に出てくる。*1。あと「トライガン」。銃は直線の攻撃しかできない、それに対して刀は曲線的な動きが可能、って理論好きだったんだけどなあ……
我らが「オーフェン」シリーズも、銃が存在するファンタジー小説としてたまに例として挙げられる。ではその評価はというと、わりとバラけてる気がする。
そこで、以下でシリーズ中の銃の扱いをざっと追ってみた。未読の人は、作品世界は都市圏ではガス灯や下水道なども整備された、産業革命を経た文明が構築されてる。作中最大の攻撃力を持つ魔術は、人間の場合他種族との混血によるものであり、遺伝的素養がない者は絶対に使えない。人間の使う魔術は音声魔術と言って、声の届く範囲までしか効果を発揮しない。以上の3点だけ知っといてほしい。
第1部~拳銃は近接戦闘で使うもの
このシリーズで銃が初めて登場したのは、4巻目の『我が森に集え狼』。銃身がないリボルバー拳銃が、「近接戦闘の切り札」として登場した。魔術士を憎むドラゴン信仰者が密造した粗悪なもので、三発も発射すれば本体が熱を持つ。軍人や派遣警察官が所持するような銃身がある正規品も、威力・精度などは大差なく、少しでも距離を開ければ当たるものではないらしい。銃の「飛び道具」としての側面は、ここでは全く剥ぎ取られている。どっちかというと、魔術に対抗しようとした象徴的意味合いのほうが強い。対ディープドラゴン戦では、オーフェンが魔術で意図的に暴発させて、最強のドラゴン相手にダメージを与えている。それと、ドラゴン信仰者の長であるマクドガルは、最終的に拳銃で自殺した。こめかみに当てれば命中率関係ないからね。
ディーディー - オーフェンペディア、マクドガルの拳銃 - オーフェンペディアより
かようにその初登場から役に立たない武器の烙印を押されてしまった拳銃だが、5巻目の『我が過去を消せ暗殺者』で、早くも挽回の機会が訪れる。魔術よりももっと強力な武器が開発されているとして、ライフリング機構を施した命中精度の高い「
第1部完結編である10巻『我が神に弓引け背約者』では、西部編のラスボスであるクオの持つ拳銃が、オーフェンの土手っ腹に穴をあける。背後からこっそり忍び寄って外れようのない至近距離から一発。古代人の文字を解析できる知能とバットを三本まとめてへし折る膂力を持つラスボスには似つかわしくない一撃ではあった。
第2部~狙撃銃の登場
第2部に入ってからは、登場人物の銃の所持率が劇的に上がる。作者がエアガンにハマり、作家仲間や編集者たちとサバゲに興じてたのと無関係ではないだろう。なんでも《牙の塔》のペンダントの意匠をMP5のハンドガードにくっつけて、あまつさえ主人公の二つ名を彫ろうとしていたとか。また、何本かの映画を観てガンアクションっていいなと思ったとか。具体的なタイトルとしては、「グロリア」を挙げてる。
14巻『我が心求めよ悪魔』ではオーフェンの兄弟子コルゴンの、というか彼が所属する「最接近領」(あの世界を支配する「貴族連盟」の特務機関的な)の武器として初めて実物の狙撃用自動拳銃が登場した。
16-18巻『我が戦場に踊れ来訪者』『我が館にさまよえ虚像』『我が庭に響け銃声』の最接近領三部作では、さらにヒートアップ。
師チャイルドマンがその概念を提唱し、オーフェンが射撃訓練を受けた*2武器として《塔》の狙撃拳銃「ヘイルストーム」(試作機)が登場。その肉体を主人のために鍛え上げた兵士ウィノナは正体不明の暗殺者に撃たれ、意識不明の状態に。現場に残された銃と残弾数から、犯人探しが始まる。探偵小説は、「権利と義務の体系が整い、司法制度や基本的人権がある程度確立した社会である」ことが欠かせない、というのはwikipediaに書かれてたことだけど、この作品を読むとなるほど、と思わせる。銃を製造できる技術のみではなく、それを取り締まる法律や所持者の意識もきっちり描かれてる。だからこその推理小説めいたパート。一方我らが主人公氏は、最強の殺し屋ジャック・フリズビー(の幻)との戦闘で地面に叩きつけて暴発させるという戦法をまたも採っていた。お前はウッソ・エヴィンか。長年使ってなかったからって暴発を恐れるのはそりゃ分かるけどさあ……
『我が庭に響け銃声』では、作品世界における銃の歴史が朗々と語られている。その語り口は、惚れ惚れするほどかっこいい。
拳銃という武器は、昔からあった――その発祥は、貴族内革命にまでさかのぼる。人間種族が天人種族の主導を脱し、自分たちで開発した武器として、その殺傷能力には注目が集まった。魔術士たちも当然、着目した。そして軽い落胆とともに出た結論が、実用性に乏しいということだった。
魔術士が落胆したのは、その武器の最大の利点――つまり拳銃の破壊力が、魔術の威力にまったく及ばなかったということだ。さらには、火薬を使用する武器には、暴発という宿命的な欠陥がつきまとう。携行できる武器としてそのサイズが自ずと限定される拳銃は、その後改良が加えられてなお、不発率、暴発率がきわめて高かった。
(略)
それらの落胆を貴族連盟へのフェイクとして、魔術士たちが拳銃という兵器を“自分たちにとっても”実用的なものへとするため水面下で研究を重ねたのは、単に興味本位の理由からではなかった。拳銃という武器を貴族連盟に独占させまいとする政治的な意図、拳銃が明らかに対魔術士用として開発されているのではないかという懸念、そして、大陸にもたらされた王立治安構想という名の平和なるものが、決して盤石のものではないというもっともらしい分析によるものだった。
この動きを、貴族連盟が気づかなかったということはあるまい。彼らが黙認したことにもまた理由があっただろう。結局のところ騎士軍を以てしても、大陸魔術士同盟すべてを敵に回して無傷の勝利を得ることはできない。ましてや、魔術士狩りの時代以降、貴族連盟は魔術士同盟と提携することの旨みに慣れきっていた。ただでさえ資金と手間のかかる兵器開発を魔術士同盟が代行してくれるのならば、それで貴族たちにどれほどの害があるというのか? 技術は裏の取引でいくらでもフィードバックできる。貴族連盟にとって、魔術士同盟は取引のしやすい相手だったはずだ。互いに互いの組織に対して負い目があり、貸しがあるという関係。共通の敵も持っている――
(略)
こうして拳銃は改良を重ねてきた。安定性を増すために、パーツとギミックを単純化して、整備を簡略にした。威力を増すために、弾頭には比重の重い金属が使用されるようになった。装填される弾数を増すために、輪胴式の弾倉が開発された。それらの技術は公然の秘密として、貴族連盟へと供与された。
だが。
真の機密として、秘匿されている技術もあった。それらは仮に流布すれば、高度に洗練された魔術でさえ対抗できないほどの殺傷力を持つのではないかと、開発者たちをも恐れさせた。
以下は、作品の外での解説。
作中で登場する一般的な「拳銃」は、銃身がなくて、間近で発砲する道具ということになってます。
弓矢や大砲の進化として登場した現実の銃と違って、鈍器や刃物から発展して発明されたものです。
だから長銃は存在していなかったし、遠方から狙って撃つという発想も(一般的には)ないという設定でした。
これは作中の舞台では人間たちが、もっと進歩した別の生き物から文明を与えられたという背景があるからという考えでした。
狩猟をすっ飛ばして農耕・牧畜に至ってしまったというわけです。
また合戦のような大きな戦闘の経験もあまりなかったことから、広大な領域での戦術がそれほど発展しなかったというのも理由のひとつです。
人間にとっては弓矢で事足りたし、人間の教導者となった異種族にはもっと凄い魔術の力があったので、必要とされなかったわけですね。
ただ人間の魔術士が力を増すにつれて、それに対抗する武器の重要性も増大して、次第に研究されて10月8日みたいな発明に至ったということです(まあ例のあいつの研究が盗まれて完成したんですが)。
何メートルかの距離で敵を突然殺傷し得るというのがそんなに恐れられてるのは、今までは不意打ちでもないとそれがほとんど不可能だったからです。
で、将来的にはさらに中・遠距離からの攻撃に発展することが予想されているというわけです。
『我が聖域に開け扉』は旧シリーズの最終巻。狙撃拳銃よりもさらに強力な、銃身が1mもある「施条銃」が登場。いわゆるライフルというやつ。
新シリーズ~狙撃銃の普及
完結からしばらくして発表された旧シリーズのエピローグが『キエサルヒマの終端』。ティッシの元で修行をしていたクリーオウは、ティッシの夫フォルテが塔からパクってきたヘイルストーム(制式機)を手にする。『我が聖域に開け扉』では素人として手にした武器を、今度は訓練を経て装備した彼女は、しかし訓練したがゆえにその怖さを知っていて、滅多なことでは発砲しない。そういう変化がさりげなく示唆される。
しかしチャイルドマン教室ヘイルストーム勝手に持ち出し杉問題。先生の開発したものは俺らのものとゆわんばかりである。
さらに作中で20年が経過した新シリーズ(第4部)では、狙撃拳銃が普及。魔術士としては落ちこぼれである(と思いこんでる)ベイジットが、魔術に対抗する手段として手に入れる。新世代の彼女の使い方は、オーフェンよりは銃に優しい。
「アタシは三発でコツを掴んだ。掴みさえすればあとは撃てば撃つだけ上手くなる。でも分からないならいくらやっても無駄。使い方のほうを工夫したほうがいいネ」
「使い方?」
「銃口を相手に向けて、イカニモ使い慣れてるヨーナ顔でニヤリとする練習とかさ。大抵は撃つより効果あるよ。弾も減らないし」
相手を威嚇するためだけに銃を装備するなら、彼女にとっても幸せではあっただろう。しかし、彼女は最終的に反魔術士組織の同志であるダンに銃を向けることになってしまう。しかも、彼に乞われて。
結論
オーフェン世界において、スペック的に一流の魔術士の魔術を超える銃火器は施条銃くらいしかなさげ。狙撃拳銃でもまだ遠い。定期的なメンテナンスが欠かせない銃は、自らの拳や魔術と比べても全く信頼性に欠ける武器として描かれている。これは、同じ著者が執筆したSF西部劇「ベティ・ザ・キッド」でも同じことである。「シャンク!!」で主人公が使うバネ式のスプリング・ガンは殺傷力は皆無に等しいけど信頼性は高い。ただしいちいちバネを巻き上げねばならないのが面倒くさい。
他作品は置いとくとして、「オーフェン」作中で銃が活躍してないかといえばそうでもない。非魔術士にとっては、やはり魔術に対抗できるかもしれないという光明であり、旧シリーズ終盤~新シリーズにかけてはクリーオウ、ロッテーシャ、ベイジットらが使用し、それなりの戦果を挙げている。役立たずのような印象が強いのは、我らが主人公氏がマトモに扱おうとしたことがないからだ。なにせ氏は、作中でもトップクラスの魔術の制御力を持った人物である。
魔術士であれば、魔術を行使する。それはごく当たり前のことなのだ。生来、そういった特殊な能力を持った者は、自然、それに頼ることになっていく。これはむしろ当然のことだった。自分の足で歩くことを、自分の足に頼り過ぎて情けないと考えるなら、それはただの偏執狂だろう。魔術士は生まれてから常に魔術とともにあり、死ぬまで魔術士で在り続ける。
並の魔術士なら「いやそんな簡単に魔術を行使するって言いますけどねあなた」とツッコみたくなるようなことをあっさり言ってのける。そして彼は、比喩でないほうの手足で殴る蹴る戦闘方法も極めに極めた、近接戦闘のスペシャリストでもある。そんなオーフェンにとって、なるほど銃はどれだけ訓練しても頼るに足らない武器に見えたことだろう。……というか基本的に武器全般に思い入れがない人なんですけどね。「剣のことがわかるのか」って聞かれて「
そんな主人公像に作者の好みが反映されてないかと聞かれれば間違いなくされてるのだけど。とはいえ、作品世界の住人みんながオーフェンみたいな偏屈な人間ばかりではない。たとえばウィノナは自分の銃に、「ディーディー」という死んだ愛犬の名前をつけてた。魔術士にとっての銃、非魔術士にとっての銃、落ちこぼれ魔術士にとっての銃、主人公にとっての銃。視点を変えることで、存在感がまるで違ってくる。物言わぬ銃は、そんなことも語ってくれるのだ。
……あと、秋田作品において