周回遅れの諸々

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秋田禎信「ハルコナ」 花粉症を駆逐した社会を描く奇想小説 空気に殺されないために

周囲数十キロの花粉を消滅させる*1特異体質を持つ人々がいる社会を描いた、奇想小説。それが、新潮文庫nexから発売された秋田禎信の「ハルコナ」だ。

 


5年前、遠夜(とおや)の隣に引っ越してきたハルコは特異体質の少女。数十キロにわたり花粉を消滅させるかわりに自分には有毒となるため、宇宙服のような防護スーツを着けなければ外出ができない。通学は遠夜がサポートを続けるなか、事故が起きる。それはクラスメートを巻き込む事件へと発展するのだが。――世界を敵に回して もハルコを守りたい、と願う17歳の決意が迸る圧倒的青春小説!

 

花粉症が直接の原因となって死ぬ人はあまりいない。HIVや癌と比べると、深刻さの度合いはハッキリと異なっている。でもそんなことは当事者にとっては何の慰めにはならない。国が杉の植林をやめたので30年後か40年後には花粉症は収まると言われているけど、それまで待つことなんかできない。患者は薬でも鼻の粘膜を焼く手術でも何かいい対策がないかと常に探しているし、仕事の効率が下がることによる経済的な影響も大きい。

 

……だからハルコのような体質の人間がいたなら*2、半官半民の組織の庇護下で適切に利用されるのも、当然と言える。その組織の名は公共改善機構。作中では「カイゼン」 と呼ばれている。

 


遠夜とハルコの日常

当初、種々の不便こそあれ、ハルコは別に絵に描いたような不幸な生活を送っているわけではなかった。人体実験の被験体になるわけでもなく、どこかに監禁もされない *3。本人にのみ猛毒となる花粉は、彼女の生む利益へのリターンとしてカイゼンが提供する設備によってシャットアウトされ、日々の生活も保障されている。周囲の大多数の人たちからは感謝され、友達もいる。そして遠夜がいる。勿論それは両親を始めとする人たちの多大な尽力のおかげだろうけど*4、彼女を守るため世界を敵に回さなければ守れない、というような存在ではなかったはずだ。少なくとも表面上は。

 

だからまあ、この先何が起こっても、爽やかな青春モノとして終わるんだろうと、序盤は思っていた。著者が言わば姉妹作として名前を挙げている「カナスピカ」同様に。 

 

(普通の女子中学生と人の形をとる人口衛星のガール・ミーツ・ボーイ)

 

花粉に取って代わったもの

作中で唯一、彼女のような体質の人間を明確に敵視しているのは、環境保護団体の人たちくらいだろう。一応環境への影響はないと言われているが、こういうことは20年 、30年と長いスパンで見ていかなければならないのではないか、という主張を唱える彼らは、遠夜とハルコの通う学校まで押しかけてくる。彼らこそが遠夜がハルコから守るべき敵だった……となればまだよかったのだけど、話はそう簡単ではない。

 

何か法に触れることをしているわけではない為警察も手出しできず、校門近くでの活動家のシュプレヒコールは日に日に過激さを増していく。それに対抗する、カイゼンから派遣されてきた職員の対応もヒートアップせずにはいられない。新聞沙汰にもなる中で、遠夜が日参していたwebコミュニティ――対抗花粉症体質者の介助者が集まる――も、口汚い言葉が飛び交う頻度が増していき……

 

明らかに事実と異なるものを除けば、環境保護運動家も、カイゼンも、介助者クラスタも、その主張の是非は作品内では問われない。みんな同じくらい正しくて同じくらい間違っている。この小説が糾弾するのは、彼らを煽動する、それぞれが属する集団の「空気」と、ひいてはそれに流されてしまう人々の心理だ

 

どいつもこいつも考えなしに「空気」に流されすぎる。それ自体は人体に害を及ぼすことが目的ではなくとも、何らかの成分が含まれた「空気」を不用意に吸い込めば、 怒りというアレルギー症状をあっさりと引き起こしてしまう。必要に迫られてそうしたとしても、またあえて空気を読んで行動しているようでも、気がつけばそれに影響され自分というものが変質して、大切な何かを見失っている。

 

そういった集団心理を描いた同著者の作品としては、「装甲悪鬼村正」のアンソロジーに収録された「愛しい香奈枝さんの装甲悪鬼村」が一番近いだろうか。「こいつは叩いてもいい」という空気が出来上がってる存在の代表格である公務員が、秋田作品においてしばしば「わりといいところもあるんですよ」とフォロー? されているのも、きっと偶然ではない。

 

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とりわけ遠夜とハルコにとって辛かったのは、親友のクラスメイトまでも「空気」に感染してしまったことだ。「大人」や「世間」の空気からハルコを守ろうとした彼らですら、怒りをこじらせ、防護スーツの中にいて遠夜以外とはロクに会話できないハルコという当事者の意思を無視し、いつしか敵を打ち倒すという手 段が目的化してしまう。「どうするハルちゃん? あいつら処す?処す?」*5と、まだ平穏だった頃と同じような冗談を同じような口調で、しかし本当に暴力に訴えかねない状況で親友が口にするのは、ハルコにとって悪夢そのものだったに違いない。

 

《世間》や《大衆》や《インターネット》の「空気」と自分との間に、はっきりと壁を作ることができれば、どんなに楽か。しかし、人が暮らしている場所なら空気は必ず存在する。大多数の空気から逃れた人たちが集まったコミュニティでもまた別の「空気」が生まれ、しばしば一個人を狂わせる。むしろ「群衆心理って怖いよね」「インターネットの悪意」などと他人事のように語ったりする人こそあやうい。というか群集心理とか言うからよくないんだよちゃんと一人一人の責任を問え! というのが本作の主張ではあるだろうか。

 

二人の決断

遠夜にしてもこの「空気」からは逃れられない。殺伐とした状況で、敵味方をはっきりさせておかないとかえって身があやういという理由で、一度は騒乱の中へ身を投じることを余儀なくさせられた。幸い、事態の核心であるハルコと最も結びつきが強かったこともあって、自分にとって最も大切なものは何か、見失わずに済んだけれど… …*6

 

では、ハルコはどうかというと、これがよく分からない。彼女は防護スーツのせいで外に向かって声を発することが出来ないため、非常に存在感が薄く、読者にはどういう人物なのかいまいち伝わってこないのだ。ここまでの文章で何点かハルコの心情に触れてきたけど、全て筆者の憶測にすぎない。カイゼンに認められた介助者として唯一、携帯端末でやり取りし、時には彼女の自室にまで足を踏み入れる遠夜にしても例外ではない。スーツの向こうで彼女がどんな表情をしているか、度々推し測りかねている。

 

ある意味で、ハルコはむしろスーツに隔てられているからこそ、必要以上に周囲に影響を受けず、超然としていられるように見えた。そんな彼女も終盤で、空気とは無縁ではなかったということが明かされる。詳しくはネタバレになるから述べないけれど、文脈からすればこれはむしろ二人の将来を期待させる表現なのだろう。そもそも空気を共有しなければ、純愛もクソもないからだ。一方で自分には、今後の二人の生活に差す暗雲のようにも見えた。何も数十人、数百人でなくとも、人が二人いれば場の空気というものは生まれる。意志の疎通を図るなら望むと望まざるにかかわらず空気の読み合いは避けられない。結果、その空気がどんな風に変質していくか、誰にも分からない。

 

遠夜とハルコは、身を切るような想いをして判断を下し、騒乱に、そしてこの小説に終止符を打った。しかし自分たちの行いが払った代償に見合うものだったか、友人たちをどこかで見くびってはいなかったか、結論が出るのは、ずっと先のことなのだろう。

 

 

※タイトルの「空気に殺されないために」は秋田先生が発売前に考えていたキャッチコピーです。

*1:厳密には本人を除く人体にとって無害なものに変える

*2:この世界ではハルコの他にも同じ体質の人間が少ないながら確認されている

*3:むしろその体質を存分に発揮するため外に出るのは推奨されている

*4:父親はより人口の多い地域に派遣される娘のため職場を変え、花粉を家に持ち込まないために丸坊主にしている。帰宅した際にはたっぷり時間をかけてシャワーで除粉処理が必要だ

*5:not原文ママ

*6:閉鎖環境での群集心理を描いた「無限のリヴァイアス」で、主人公の昴治が、ネーヤという核心と繋がっていることで唯一正気を保っていられたように?