七月隆文「ぼくは明日、昨日のきみとデートする」のヒットに見るラノベと一般文芸の境界
実写映画「ぼくは明日、昨日のきみとデートする」が12月17日から公開される。原作は2014年に刊行された七月隆文の恋愛小説。10代、20代の女性にものすごく売れて、発行部数は100万部を突破したらしい。
この事実が私に与えた驚きは、「君の名は」*1が興行収入100億とかそんなレベルじゃない。新海誠は「ほしのこえ」でブレイクし、以降も有名原作がついてるわけでも人気TVシリーズの続編でもないオリジナルの長編アニメーション映画を商業作として何本も発表してる時点で、「選ばれし者」だった。じゃあライトノベル作家としての七月隆文はどうだったんだろうか。
七月隆文の経歴
リンク先でも書いたけど、七月隆文は1978年生まれ。京都精華大学美術学部(現マンガ学部)を卒業後、有名なアニメ脚本家である
初のオリジナル作品となった「
ペンネームを七月隆文名義に変えた「白人萠乃(しろうともの)と世界の危機」(2005)は、師匠・あかほりさとるを彷彿とさせるハイテンションラブコメで、以降はこの系統の作品を主に刊行していくことになる。「ラブ☆ゆう」(2006-)はタイトルから想像される内容を裏切らないベタベタな内容で人気が出たけど、6巻で何故か刊行がストップしてしまう。「
七月隆文の作家性
不遜な物言いながら、七月隆文には、卓越した描写力や語彙力といったものはない。ひとつの物語を作り上げるに当たって、世界を緻密に構築するわけでもない。尖ったギャグセンスもない。一貫したメッセージや哲学? そんなものは望むべくもない。玄人好みの硬さとか渋さといったものとは元々無縁だ。
彼はただ、商業作家であり続けた。その時々の業界の流行に全力で乗っかった。ラブコメは元より、「ちょっといい話」系連作短編も現代学園異能も百合も書いた。そこそこ売れたものもあれば打ち切りもあった。面白いものもつまんないものもあった。そして、主人公が何をしてもすごいすごいと褒め称えられるという、
そのアニメなどと違い基本的に製作者が一人であるためか、*2作家の癖みたいなものがどうしても出てしまうラノベというか小説において――だから私は、単にエロとか可愛いキャラを楽しむためにはラノベはあまり読まない――、ここまで何かをかなぐり捨てた作家は初めて目にした。
僕は『読者が何を期待しているか?』ということをとても気にするタイプの作家なんです。この作品*3は『ぼく明日』を読んだ人が、同じ作者の新作として期待するだろうものを、と決めて書きました
僕としてはかなり意識的にギャルゲーやライトノベルの文化を一般文芸に持ち込もうとしています。自分が好きなものを素直に出したいですし、一般文芸の読者にとって、それが新鮮で魅力的なものに映るんじゃないかという思いもあるので。
※週刊文春11月24日号のインタビューより
そしてそんな姿勢は、初のラノベレーベル外からの出版となった「ぼく明日」でも変わっていない。
越境ブームの中で
2000年半ばにライトノベルの知名度はぐんと上がり、それと時を同じくしてラノベ作家の「一般文芸」方面への越境が相次いだ。いや、越境が相次いだからラノベの知名度が上がったのか。どちらでもいいけど、その頃、読者が「この人は一般文芸でも売れる」と思うのは、大抵が「ラノベの枠を超えている」的な評価を受けた作家だった。先述した描写力や語彙力を持つ人。緻密に世界を構築する人。一貫したメッセージや哲学を持つ人。「売れ線」から外れた題材を取り扱う人……。
でも、あれから10年経って、ひょっとして私たちの憧れた「一般文芸」は幻だったんじゃないか、と思うようにもなってきた。というか「一般文芸」なる言葉があらわす対象の曖昧さを思い知った、と言うべきか。
http://d.hatena.ne.jp/srpglove/20161109/p1d.hatena.ne.jp
出版は文化事業だけど、慈善事業じゃない。いわゆる「純文学」はもう長いこと商業的にはふるわず、私たちが現在書店で目にする新刊文芸書の結構な数は、エンタメとか大衆小説とか娯楽小説とか呼ばれるもの。純文学との対比で考えるなら、本をよく読まない人がイメージする「文学」じゃない方のやつだ。そこでは売れないものは当然淘汰されるし、じゃあ売れるためにどんな作品を作るべきか、と考え出すとラノベ同様に色々制約がつきまとう。売れるため、装丁にも凝るし、書店の棚での回転率もラノベ並とは行かないまでもこの出版不況下でガンガン上がっている。
一般文芸というのはラノベを語る際には「ラノベ以外の全ての小説」のことであって、SFやミステリー、時代小説などのジャンル小説も全て含むので、すそ野は当然ラノベより広い。そこに活路を見出す作家もいる。でも、やっぱり難解とか玄人好みとかで売れない人は売れない。例外は幾らでも思いつく。たとえば村上春樹。文章は平易とはいえ、あんな曖昧模糊とした小説がよくも国民的な人気になるなは思う。純文学の賞である芥川賞受賞作も、なんだかんだ毎回ベストセラーリストに名前を連ねている。
逆に七月隆文のような作家でも、ふとしたきっかけで受け入れられることはある。これは何も「キャラノベ」「ライト文芸」といったジャンルが流行りだした昨今に始まったことではなく、ずっと昔からそうだ。赤川次郎は40年前にデビューして、往時に比べれば勢いが衰えたとはいえ、今でも売れ続けている。
七月隆文の今後の進退
先述した週刊文春のインタビューでは、「ラノベ作家は読者の年齢層に合わせて若くなければならず、それに合わせて徐々に一般文芸にシフトするキャリアプランを考えていた。プロ野球選手と同じで、二十代で活躍し、三十代でベテランと呼ばれ、四十代で引退。でも、今ではこの考えを否定している。今売れてるラノベの殆どは三十代、四十代が書いているから」と語る一方で、「ぼく明日」の設定を思いついた頃は「まだライトノベルを書き続けるつもりだった」と述べてもいる。この表現では、七月が今後ラノベを書き続けるかは曖昧だ。「庶民サンプル」は完結させたし*5、後顧に憂いはない――
まあでも、そんなはっきりと区切りをつけることもないのかな、と思う。キャラノベやライト文芸が売れてる現状、狭義のラノベレーベルで書く意味っていうのも薄れてきてるし。売れなくなったらまた戻ってきて「白人萠乃」「庶民サンプル」みたいなガッチガチのラノベ書いてもいいし。越境っつっても、そんなはっきりした境界線があるわけじゃないんだから。