アラサーの私が20年間どんなラノベを読んできたか
「ライトノベル個人史」みたいなものを書きたくなったりすることもあるのだけど(そして同時に、そういうものを聞きたいし読みたいぞ、と頻繁に思ったりもしているのだけど、あまり「順を追うように」書いてくれてる文章って、巡り逢えてなくて、常に飢えている、ところがあったりもする……)
ブログリニューアルしたし、ブログの内容は現在のところラノベ関連が多いし、まあちょうどよかんべ、ということで。旧ブログから読んでくれるような人的には、お前いつも同じ話しかしないなって思われるかもしれないけど、ご容赦を。
ラノベ以前
ラノベを読む以前、小学校中学年くらいまでは「ズッコケ三人組」とか「シャーロック・ホームズ」とかを読んでたんじゃないかと思う。ゲームの楽しさを小説にしたとよく言われるRPG系ラノベの下地として、「ドラクエ」「FF」あたりはプレイしてた。漫画では「魔法陣グルグル」「BASTARD!!」とか。ああ、高屋敷英夫、久美沙織らによる「ドラクエ」ノベライズは読んでいたけど、それはあくまでゲームノベライズとしてで、あんまりその後のラノベ遍歴には繋がっていない気がする。
テレ東18時台の出会い
本格的に読み出したのは、この世代の鉄板「スレイヤーズ」から。95年に放映されたTVシリーズの1作目でその存在を知った。「スレイヤーズ」というと既存のRPGのパロディばかりが取り沙汰されるけど、前述した通り「グルグル」などを読んでいた身としてはそれほど新鮮さはなく、設定を噛み砕いて現代人にも親しみやすい世界にしただけの、普通のファンタジーとして楽しんでいた。だって本編第1部のラストは主人公が世界の成り立ちに触れたことでデウスエクスマキナが降臨して物語の幕を引くんだぜ!? これがファンタジーでなくてなんだというのか。
……というのは冗談にしても。
サイヤ人も驚くほど延々バトルしてて、基本的に初期からステータスが変わらないリナを主人公にゲーム的な戦術の駆け引きを20年も思案し続けてきた神坂先生には狂気を感じる。本編11巻「クリムゾンの妄執」はそのきわみ。
ほぼ同時期にオタクの友人に連れられて「新世紀エヴァンゲリオン シト新生 Death and rebirth」を観に行く。リアルタイムでも何回か見てたけど、これが決め手であっという間にオタク色に染まる。テレ東深夜にやっていた再放送で全話見た後、夏の劇場版「THE END OF EVANGERION」を観る。「気持ち悪い……」言われても熱は醒めず。続いて「ナデシコ」にハマる。泥沼。
神坂一の後輩たち
「スレイヤーズ」からしばらくは、順当にファンタジア文庫中心に読み漁る日々が続いた。神坂作品はもちろん、麻生俊平、川崎康弘、小林めぐみ、ろくごまるに、星野亮、あざの耕平などなど……。特に新人賞作家を贔屓にしていたところはある。受賞作は最初から商業化を意識して書かれた作品とは別の自由さが感じられ、楽しかった。ファンタジア大賞は11回位までは大体読んだはず。ファンタジー、はまあ好きだけど、現代物などと比べて殊更に好きか、とゆわれると。当時はFTブームのさなかで数が多かったので自然と読むものもFTが多かったという感じ。
既刊の品揃えが地域最大級だったためこの時期ブックオフに非常にお世話になっていたことは懺悔しなければ、と思いつつ、でも
そんな中で特に「スレイヤーズとは違うもの」として好きだったのが、「魔術士オーフェン」。ひねくれ者によるひねくれ者のためのFT。そういう意味で最強の厨二ラノベ。キリランシェロ・フィンランディ氏は俺たちの時代のキリトさん、のなりそこね。およそラノベに限らず、小説というものに対する考え方のほとんどは秋田作品が根っこにあるし、好きな原作がアニメ化した時に生じるネガティブな感情を初めて嫌というほど味わったのも「オーフェン」だった。
「オーフェン」は最初学校の図書館で出会ったんだけど、2巻目の口絵がヒロインの水浴びを覗いてるという、由緒正しいサービスカットで、恥ずかしくて思わず棚に戻してしまった。「スレイヤーズ」は服の上から胸のぽっちりまで形くっきり、色もはっきり透けて見えてるじゃなーいー! ってなことが頻繁にあったし、まあそんなもんだよね今も昔も。ああ、乳頭ね。その方が殿方に受けるのよ。
電撃の時代
センター試験1日目終了後に「オーフェン」新刊を買ったり母校の入試前日に「ブギーポップ」新刊を買ったりしつつ、世はそろそろ電撃文庫の時代。わたしも上遠野浩平、時雨沢恵一、秋山瑞人、中村恵里加、高野和なんかを読んだけど、電撃文庫というレーベル自体にはそれほど愛着を持ちきれなかったところはある。なんというか全体的にパッケージングがギャルギャルしいのが苦手だった。多分電撃G's文庫っていう姉妹レーベルの存在と、電撃hpにエロゲーの広告載せたりしてたのは大きい。しかも一般向けにドリキャス・セガサターンに移植されるような葉鍵ゲーとかじゃなくてMinkやoverflowのガチなやつっていう。
当時ラノベレーベルの数はそれほど多くなかったこともあり、富士見・電撃と並んで御三家と呼ばれていたスニーカー文庫は、安井健太郎くらいしか追いかけてなかった。
マリみてブーム
大学入学に際して上京し、PCを購入。誰憚ることなくエロゲをプレイし、インターネットの海を漂う。現在のネット人格であるわたしが生まれたのもこの頃。そんな平均的な学生ライフを送る中で、ラノベに割く時間は減っていった。周囲では新本格ブームで講談社ノベルスなどのミステリを読んでる人が多かったし。けれど、卒業にはまだ少し早かったらしい。2002年頃、web上で「マリア様がみてる」ブームが訪れる。
骨格は至って真っ当な少女の成長物語だけど、リリアン女学園という舞台、姉妹(スール)制という特異な設定が生む女の子たちの感情のぶつかり合いに、「咲」とか「アイカツ」とかと同じような楽しみ方をしていた気がする。
マリみてというか、コバルト文庫を始めとした少女向けを少年向けと一緒くたにラノベと呼ぶかどうかは議論が分かれるところだし、わたし自身も好きなラノベは? って聞かれてまずマリみての名前を挙げるのは違和感あるけど*2。メジャー感ではアニメや漫画、一般ゲーに遠く及ばず、オタクコンテンツとしての勢い? ではエロゲに敵わない。下半分メモ帳だのなんだのと何かと批判を受ける……そんなラノベ(に近いもの)の一作がオタクの中で流行し、自身もそれを体感できた。そしてムーヴメントの向こうにはラノベ読みなる人達がいた。それを知ることができたというのは、ラノベ熱を再燃させるのには一役買った気がする。ここからしばらく、女性的(!)な感性を持つ作家*3を読んでいくことに。
コミケの故米澤代表が、2003年末に「マリみてブームは男オタが無理やり萌えようとして発見してきた。無理があるのでいずれ限界が来る」とコメントして波紋を呼ぶなんてこともありました。でも考えてみたらあれってイベントでの発言で、いまいち文脈とか不明だった気もする。確か男性向けのギャルゲー文化が退潮気味という流れからだったとは思うんだけど。
ラノベ語りブームからとレーベル新創刊ラッシュ
「ライトノベル」という言葉は、1990年初めに初頭にパソコン通信のニフティサーブで生まれ、紆余曲折を経て2000年代前半に定着した。web上で最大のファンコミュニティである2chの「ライトノベル板」*4にその名が冠されていた、というのは大きかっただろう。2004年にはライトノベル語りブームとでも言うべきものが訪れ、各種ガイドブックや評論本などが多数出版される。
ジャンルの再発見はラノベの歴史を俯瞰してみせ、わたしにとっても自身がオタクとして物心つく「スレイヤーズ」「ファンタジア文庫」以前に目を向けさせるきっかけとなった。「ライトノベルめった斬り!」には特にお世話になりました。特に多作品を読んだのは夢枕獏と氷室冴子。ぶく先生は青春小説としての側面が、火村センセはあまり時代を感じさせないニュートラルな語り口が馴染みやすかった。
00年代後半には出版不況の中で売上が「落ちていない」ジャンルとして注目されたことでレーベルの新創刊も相次ぎ、デビューする人も増えた。「このライトノベルがすごい!」「ライトノベルサイト杯」など各種ランキング企画が定着したことで、わりと雑多に話題になったものを読んだと思う。清水マリコ、ヤマグチノボル、西野かつみ、米澤穂信、長谷敏司、野村美月、中村九郎、竹宮ゆゆこ、西尾維新、田中ロミオ、比嘉智康、餅月望、清野静……。この辺りからキャラ萌え的な読み方を当たり前にするようになった。というか、以前からそうしていたことを自覚した。年とるとそういう軟派なものを避けたいみたいな自意識って、日々の生活に流されてどんどん鈍磨していく気がする。
自分が何を読んでいるのか、ということについて無関心だった90年代と比べ、00年代は基本的にライトノベル固有のジャンル意識*5というものと読書が深く結びついた生活を送っていたように思う。当時、ライトノベルから活躍の場を移す「越境」という言葉が流行ったけど、2008年の桜庭一樹の直木賞受賞は、わたしにとって象徴的な出来事だった。しかし桜庭や有川、冲方はともかく、七月隆文が一般文芸で100万部作家になるとは誰も想像できなかったんじゃなかろうか……。
元々エンターブレインで刊行された桜庭一樹の「荒野の恋」が3部作予定のところ2巻まで出して打ち切り、文春で直木賞受賞後第一作として3巻目分含めて四六判として「荒野」と名を改めて発売、後に「荒野の恋」のほうのタイトルで漫画化、という流れは、対象読者によってパッケージングは変わるというのを端的に示していていたと思う。桜庭作品は「GOSICK」も「砂糖菓子の弾丸」もラノベ時代のパッケージングメッチャよくて、一般文芸で出し直したやつも悪くなかったんだけど、「荒野」は、あの作品だけは文春の装丁がダサく、いまだに心残りとなっている。ミギーのイラストならそのまま出してもいいじゃんかよう。
そして、わたしは石川博品と出会った
「耳刈ネルリ」でデビューした石川博品にはこの数年ずっと魅了されっぱなしだ。溢れんばかりの教養と、変幻自在の文章と、愛すべきキャラクターたち。特に学園奇想百合小説「四人制姉妹百合物帳」は現時点での彼の最高傑作だと思う。
博品の後、ラノベ観を強く揺さぶられるような作家には出会っていない。ガチで読んでる人に比べればただでさえ少なかった読了数も減り、アニメで初めて人気原作に触れる、なんてことも増えた。結構ハマったのは渡航と村上凛の二人かな。
これだけ長く読んでると、大好きな作家Aに影響を受けてデビューした作家B、というのも既にたくさん出てきて手を出してみたりはしてるんだけど、
秋田禎信大好き作家の代表格、河野裕
ラノベ以外はどうかというと、著作権が消滅したりしてなかったりする文豪では三島、谷崎、太宰といった鉄板、現代のエンタメ系では森見、海外作家だとマーガレット・ミラーとか思い出したように読んでるけど、どうにも実になっていないというか、趣味として自分のものになってないかなあというのが現状だ。逆にラノベの特性は、今でもラノベを読み続けている理由はと問われると、まあアニメ・ゲーム・漫画的表現がどうたら、というのもなくはないけど、ここまで来ると慣性で読み続けてるというのが一番かなあ。最早ラノベ的なるものがオタクとしての自分にフィットしすぎてて、たとえラノベ以外の何かを読んでてもラノベで培った思考抜きには読めない。
ただまあこれまで挙げた作家の中で今も現役で活動してる人は多いし、そういう人を追っかけてラノベを読んでる内にまた新しい作家に出会えるかな、と楽天的な気持ちではいる。ラノベを読む人も書く人も、言うほど昔と断絶してる気もしないし。なろう系も90年代のRPGファンタジーブーム再びみたいな匂いを感じる。でも、