「この世界の片隅に」 笑い声と艶ごとと声優と百合と8月6日とサザエさん
2008年に刊行されたこうの史代の原作漫画を読んだのは、去年のこと。面白かったし、感銘を受けはしたけど、そこまで読み込んだわけではない。既に細部の内容は結構忘れている。映画化の話が具体的になった時も「まあいつか観に行くだろう」くらいの――そういう場合、往々にして観に行く機会を逃す――気持ちだった。同じ片渕須直監督の「マイマイ新子と千年の魔法」も、実はこの映画の予習として三日目に初めて観た。「アリーテ姫」はもうしばらく前。
私の目を覚ましたのは、予告編だ。すずさんと周作の、防空壕でのキス。夏に「ちえりとチェリー」*1を渋谷ユーロスペースで観た時に流れていた予告編の、あの色っぽさにドキドキが止まらなくなって、できるだけ早く観にいくことに決めた。 そして、公開二日目に
この映画は、戦時下、軍港のある広島県呉市に嫁に来た女性、北條すずの日常を描いたものだ。辛く苦しい生活ではあるけれど、何かと足りない食事や衣服、ありふれた自然、軍艦にすら、毎日を楽しむ術を彼女は見つけようとする。
すずさんが、そこにいた
主演はNHK朝の連ドラ「あまちゃん」*2でブレイクした、
どんどん演技が上達していくとか聞く側が慣れるとか、そういうことを感じる暇すらなかった。アフレコ技術的に何かが凄いというのがあるわけではない。といってキャスティングの妙、という言葉でも片付けられない。「声優初挑戦」という浮ついたアオリが似合わない何かがある。登場人物全員が広島弁ということもあるのだろうか*3。日本人俳優の喋りは受けいられないけど、海外の俳優なら本来のイントネーションが分からないので大丈夫、というアレ。
日常
すずさんの幼少時代の思い出を描く冒頭から始まって、物語は終始テンポよく進む。こういう「自然」「日常」を特に描くものって一つ一つのシーン、一つ一つカットをじっくり映すものも結構あって、同じ「マイマイ新子」もそうだったんだけど、こちらはパキパキと日々の暮らしが綴られていく。画面全体がすずさんの描いた水彩画風のタッチになるところとか、色々映像的な見どころが多い映画ではあるんだけど、それらも特に長く映すでもなく、惜しげもなく次のカットに進む。それでいて、単調にはならない。
尺の都合、というのは当然あるんだろうけど、そこには
また、戦時下でありながら、ぼーっとしてておっちょこちょいなすずさんのキャラクターが生む明るい笑いが随所に挿入されているこの作品には、これくらいのテンポが合ってるのかな、とも思った。私が観た回では、観客*4の笑い声がよく聞かれた。
日常の片隅に感じるエロス
予告編で煽られた艶っぽさへの期待は裏切られなかった。むしろ期待以上だった。翌日は朝早く起きて、足が悪い義母の代わりに家事をしなきゃいけないという、夢がない初夜。できたばかりの防空壕で、埃まみれ汗まみれになりながらのキス。そして、突然現れた嫁の幼なじみである水原を夫の習作が家長としての責任を大義に納屋で寝かせ、でも寒いだろうからという理由で暖房器具をすずさんに持たせて、そして……。どれもこれも、生活感があってとてもよい。戦時下でも日常生活というのがあって、もちろんその中にはごく当たり前に男女の営みというのが含まれている。そんなごく自然なものとしての艶ごとが、匂い立つような濃密さで描かれている。
基本的にこの映画におけるキャストは能年玲奈が際立ってて、あとはちょっと一歩引いてる感じなんだけど、水原がすずを訪ねてきたシーンでは、
夫婦もののこうの作品としては、親同士の取り決めで突然結婚することになった甲斐性なしの旦那と能天気でいつもニコニコ笑ってる妻を描いた「
弟の嫁と義姉
すずさん以外のキャラクターで私が好きなのは、旦那である周作の姉の径子さん。というか、すずさんと径子さんの組み合わせが好き。嫌味なところもあるけど、実家への里帰りやオシャレな服の作成など、当人にはその気がないのに結果としてすずさんが喜ばれてるところがいい。「すずさんとお義姉さんは、同じ原作者の『
まあでも「この世界の片隅に」を観てぼーっとしてるすずさんとツンケンしてるお義姉さんの組み合わせいいなって思った人にはおすすめです百合とか関係なくごめん嘘ついた「この世界の片隅に」はともかく『街角花だより』はわりとかなり百合です。
20年08月06日
太平洋戦争中の約2年の日々を描く上で、本作ではこのエピソードは何年の何月何日に起こった出来事ですよ、というテロップが表示される*6。広島が舞台で、戦争末期を描いていて……となると、観客は当然、あの出来事を思い浮かべる。月日が進むごとに、ああ、もうすぐ
しかし、この物語の一番のターニングポイントは、8月6日よりも前に訪れる。先ほど楽しいことも悲しいことも等しく、見どころでも長回しするようなことがなく、と書いた。しかしそのシーン*7だけは例外的にじっくりと描かれ、観客に一つの事実をこれでもかと突きつける。苦しくても笑顔を忘れない、そんなの綺麗事じゃないのか、と問いかけてくる。
一方ですずさんを主役とするこの物語にとっての8月6日は、隣の市で何か大変なことが起こった日、として描かれる。たとえそれが同じ広島県内で呉市とは距離的にはそう離れてない、自分の実家がある広島市で起こったことであっても、当日その時点では当事者ではない。
たくさんの人が亡くなった。戦争の帰趨を左右する上で重要な出来事だった。初めて戦争で核を使われた*8。被爆者の方々は今でも苦しんでいる。日本という国全体が、その日を特別な日として記憶している。しかし、すずさんという一個人にとって、そして他の、あの時代の多くの人にとっても、
笑顔の裏
8月15日、終戦を告げる
では、我慢して我慢して見出した楽しさは、無為な楽しさに比べて不純か? とゆわれれば別にそうでもない。そういう状況自体は憎んでしかるべきだけど、辛い時は辛い、苦しい時は苦しいと口に出してしまう人間を決して否定すべきではないけれど。それはそれとして、歯を食いしばって涙をこらえて人生を楽しむことができる人間は、尊いと思う。
ターニングポイント以前、軍艦が浮かぶ港の絵を趣味で書いていたら憲兵に敵国のスパイと疑われ、スケッチブックを取り上げられたすずさんを見て、お義姉さんやお義母さんは「こんなボーっとした子がスパイだなんて!」と笑っていた。以前なら、同じ玉音放送を聞いてもきっと誰かが「何言ってるかわかんねえ!」と笑ってたんじゃないだろうか。と、これは一緒に観に行った人の指摘だけど、なるほど、と思う。彼女たちは変わってしまった。
でも、変わってしまって、それでもなお笑うことができたら。この映画は、まさにそれが言いたかったんじゃないか。原作の連載開始時期が戦後わりとすぐで、当初は配給や内地への引き揚げ、波平の上官やフネの女子挺身隊時代の知り合いがどうこうというエピソードもあった「
なお、この「サザエさんうちあけ話」は、原作で参考文献の一つとして挙げられている。というわけでサザエ実況民にもおすすめ(唐突なあさっての方向へのアピール 。私たちの日常とあの戦争は、こんなところで繋がっている。
心残り
不満というか失敗した点は、EDのクレジットロールの後も席は立たない。それは守った。守ったがしかし、クラウドファンディングの参加者に知った名前を見つけては、あっアニメライターのナントカさんだ!とか喜ぶほうに夢中で、下の方に一緒に映ってる絵の方に集中できなかったこと。
次はシネマシティで観ようかなあ……でも
*1:これもクラウドファンディングを採用して制作された
*2:当方未視聴。そういえばあの枠も方言推しですよね
*3:このため細谷佳正、佐々木望、大亀あすか、新谷真弓、田中真奈美、喜安浩平と広島出身のキャストを揃えている。まつらいさんもジッサイ出てたかもなあ……
*4:アニオタっぽい人もカップルもいたけど、結構ご年配のお客が多かった印象
*5:この辺りは、劇場版では尺の都合から大分カットされてる
*6:ただし「昭和」という元号はつかない。平成に生きる私たちにそれが過去のことだと思ってほしくないから、らしい。原作の連載開始は平成19年、作中は昭和19年、という風に昭和と平成をリンクさせてもいる。すずさんを平成生まれにすると今、26、27歳
*7:正確にはそのシーンの後
*9:観に行ったのが日曜だったので