「サクラダリセット」「階段島」河野裕講演会 in 中央大学白門祭 レポ
11月4日に中央大学の学園祭「白門祭」にて開催された、河野裕先生の講演会に行ってきた。中央大学にお邪魔するのは、3年前に米澤穂信先生の講演会に参加して以来だ。って、そういえばあれも文学会さん主催のイベントか。いつもお世話になってます。
正式名称は「河野裕・高橋祐介対談講演会~小説をつくること~」。河野先生は『いなくなれ、群青』を始めとする青春小説「階段島」シリーズでブレイクし、「サクラダリセット」は実写映画化とTVアニメ化が予定されている。今後一層の活躍が期待される若手作家だ。もう一人、タイトルに名前のある高橋祐介さんは、「階段島」を刊行している新潮文庫nexの編集長で、河野先生と名を連ねているものの、基本的には聞き役に徹していた。この文章はそのレポートとなる。ただし、実際の講演会は
- まず河野先生の作品、特に「階段島」シリーズがどのように書かれたか
- 河野先生が影響を受け、また今回の課題図書として推薦した
乙一『失はれる物語』、夏目漱石『草枕』、村上春樹『スピートニクの恋人』、ミヒャエル・エンデ『モモ』、秋田禎信『ハルコナ』 の創作者視点からの解説 - 休憩を挟んで質疑応答
という形を取っていたのだけど、わりと話題があっちこっちに飛んだり、前半は春樹までで時間切れになったりして、そのままだと分かりづらそうなので、そういう場合時系列は無視して、話題のまとまり毎に書いていく。
基本的に以下に書いてあることは全て河野先生の発言*1。わりとうろ覚えなところもあるので、この文章を閲覧してくれた人の中に講演会に参加した人がいたら、是非ツッコミを入れてほしい。というか、参加しなかった人は「当日はこういう話をしてたんだな」くらいに大まかな流れだけ受け取ってもらえると。それと、創作手法に関して河野先生は何度か「
※他の参加者の方からご指摘を受け、一部文章を修正しました。
- デビュー前の経歴
- 『いなくなれ、群青』 なぜこのテーマで物語が書かれているのか
- 『失はれる物語』 設定とプロットの関係について
- 『草枕』 小説という媒体の面白さについて
- 『スプートニクの恋人』 文章表現について
- 質疑応答
- 「サクラダ」はどこまでが最初から考えられていた要素で、どこからが後づけなのか
- イラストについて、何か指定をすることがあるか。「サクラダリセット」のスニーカー版で、ケイの外見が少しずつ変わっていったことに対して、何か知っていたら教えてほしい。
- 自作で思い入れのあるものは
- 高橋氏への質問。「群青」は「サクラダ」のような小説を、と依頼したそうだけど、他の著作の名前を挙げての依頼というのはよくあるのか。また「サクラダ」のどのようなところが好きか
- 創作する上で、外で色んなことに直接触れるのと、例えば部屋にこもって哲学書を読んでいる、というのはどちらが重要か
- 先ほどの講義で触れなかった『モモ』と『ハルコナ』について、これだけは語っておきたいというのがあれば
- 秋田禎信「エンジェル・ハウリング」が好きで『シリアルバレット・オイタナジー』という二次創作のような作品を書いているが、秋田先生について
- 個性的なキャラクターの台詞回しはどのように思い浮かぶのか
- 頭のいいキャラクターが多いと思うが、執筆している時に注意する点は
- 物静かな主人公が多いように思うが。
- 書きにくいキャラクターというのはいるか
- 小説以外で好きなもの/影響を受けたものは
- 文章のリズムをかなり重要視しているように感じたが、漢字と平仮名の使い分けについてどう考えているか
- 好きな色とその理由
- 孤独について。また孤独感を誤魔化す方法
- 閉会
デビュー前の経歴
小学生の頃からフィクションが好きだった。漫画、ゲーム、小説とメディアは問わなかった。その内、いつからか作家を志すようになった。多くの子供の夢がそうであるように、特にこれといったきっかけというのはない/覚えていない。
高校生の頃は新人賞に投稿する生活を送っていたが、どこにも引っかからなかった。
大学時代はとにかく書かなければ駄目だということで、1日20枚みたいな感じで目標を決めて書いていたこともある。
今回取り上げる作品は、『モモ』は小学生、『草枕』『失はれる物語』、それと『ハルコナ』……というか秋田作品*2は高校生、『スプートニクの恋人』はちょっと遅くて大学に入ってから読んだ。
卒業後はグループSNEというゲーム会社に所属。運良く作家デビューすることができ、現在に至る。
『いなくなれ、群青』 なぜこのテーマで物語が書かれているのか
11月19日午前6時42分、僕は彼女に再会した。誰よりも真っ直ぐで、正しく、凛々しい少女、真辺由宇。あるはずのない出会いは、安定していた僕の高校生活を一変させる。奇妙な島。連続落書き事件。そこに秘められた謎…。僕はどうして、ここにいるのか。彼女はなぜ、ここに来たのか。やがて明かされる真相は、僕らの青春に残酷な現実を突きつける。「階段島」シリーズ、開幕。
基本的に作家は編集者に依頼されて書く。シリーズ1作目の『いなくなれ、群青』は編集者に、「サクラダ」のような小説をもう一度読みたいと言われたのがきっかけ。どの編集部どの雑誌で書くか決まった時点で、ある程度の方向性は固まる。
(テーマから入るのか、プロットか、設定か、という高橋氏の質問に対して)多くの場合、書く前にまずテーマを決める。このテーマというのは何も崇高なものに限らず、「可愛い女の子を書く」とかでもいい。「群青」の場合は、「特殊な閉鎖空間での日常」というのがテーマだった。現実を映す鑑というのは小説の王道だが、全てを映すことは不可能なので、一部を切り取る。あとはどういう切り取り方をするかだが、『群青』は「閉鎖空間」というのがその手法だった。
次にプロットに入る。プロットは、一応最初の頃は礼儀として(笑 高橋氏にプロット出しましょうか、と言っていたが、別にいいですよ、と返されたので以降は提出していない。ただ、ストーリーを追っていて楽しいエンタメを書くならプロットは重視するけど、
「階段島」では1冊目の『群青』が後者の「気持ちいい一文」を書くための小説。当時自分が悩んでいたことをいかに分かりやすく書くか、というのも課題だった。2冊目はその後の展開のために階段島という世界を説明するもので、プロット≒ストーリー重視。3冊目は階段島送りにならなかった主人公のifを描き、本編? 以外の可能性を潰した。そのため4冊目以降は方向性がより明確になっていき、主人公の七草とヒロインの真辺が対立する。この二人が敵対するというのは、当初からの予定だった。
「階段島」では真辺に強い信念があり、七草はそれを全て信じてはいない。同じ感性を持つ者同士が結ばれるというのはエンタメ的には王道だけど、現実はなかなかそうはいかない。
『失はれる物語』 設定とプロットの関係について
目覚めると、私は闇の中にいた。交通事故により全身不随のうえ音も視覚も、五感の全てを奪われていたのだ。残ったのは右腕の皮膚感覚のみ。ピアニストの妻はその腕を鍵盤に見立て、日日の想いを演奏で伝えることを思いつく。それは、永劫の囚人となった私の唯一の救いとなるが…。
もし、自分が『失はれる物語』を書くとしたら? まず、*4この小説のテーマを「美しい自殺」とする。そもそも自殺というか、「死」ってなんだろうと考えた時、動くことを「生」、動かないことを「死」と考える。次に自殺の方法。派手な自殺はエンタメとしては見栄えはするけど、「動かない」自殺のほうが美しい*5。「動かない」自殺を実現するには? 病院のベッドで静かに息を引き取る、というのがいいのではないか。ここまで考えれば、あとは実際に書かれた「失はれる物語」の内容までわりとすぐに近づく。
そして自殺の動機。現実には、その人が死ぬことで保険金が入ってくるといったこともあるけど、主人公が死ぬことで妻が金銭的に救われるというのは美しくはない。また、交通事故で五感を失った主人公にピアニストの妻が指先で想いを伝える、という
物語の冒頭では、妻の魅力を語った後に、妻の両親が同居していることに触れられている。両親についてはその後全く登場しないのでこの文は異物のようにも感じるが、これは義理の両親がいることで、二人が病院にいる間、娘はどうしているんだ、という方に読者の意識が行かないための説明だろう。娘の存在は二人の結びつきの強さを示すためには重要だが、病院での二人だけの世界を演出するには邪魔だから、両親に世話してもらっていると示唆する。主人公の両親が既にこの世を去っているのも、同様の理由。
乙一先生は、一つ一つの要素がシンプルで無駄がない。こういう設定だったらこういう内容になるな、というのをストレートに文章にしていて、短編の勉強になる。
『草枕』 小説という媒体の面白さについて
明治期の文学者、夏目漱石の初期の中編小説。初出は「新小説」[1906(明治39)年]。「智(ち)に働けば角(かど)が立つ。情に棹(さお)させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」との書き出しは有名。三十歳の画家の主人公が文明を嫌って東京から山中の温泉宿(熊本小天温泉)を訪れ、その宿の美しい娘、那美と出会う。那美の画を描くことをめぐって展開するストーリーに沿って、俗塵を離れた心持ちになれる詩こそ真の芸術だという文学観と「非人情」の美学が展開される。低徊趣味や俳句趣味の色濃い作品。
漱石は俳人でもあるので、文章にリズムがある。文章は頭の方が重く、後ろの方に読点がある方が綺麗にまとまるし、勢い良く読める。
漱石が小説を集中して書いたのは約10年と短い間だけど、物語の根底にある哲学はわりと一貫しているのに対して、文章は変化していってる。処女作『吾輩は猫である』は「余裕派」と言われるだけあり結構遊びもあるけど、後期になるとこれが研ぎ澄まされていく。
『スプートニクの恋人』 文章表現について
22歳の春にすみれは生まれて初めて恋に落ちた。広大な平原をまっすぐ突き進む竜巻のような激しい恋だった。それは行く手のかたちあるものを残らずなぎ倒し、片端から空に巻き上げ、理不尽に引きちぎり、完膚なきまでに叩きつぶした。―そんなとても奇妙な、この世のものとは思えないラブ・ストーリー。
『スプートニクの恋人』の冒頭は、当初強めの言葉ばかり使っていたのが、段々と弱めになっていく。これは語られていること、すなわち恋→ヒロイン→主人公の作中における重要度を示している。つまり本作では一番最初に作品における一番重要なことが語られているわけだけど、こういうことは怖くて自分にはできない。短編ならともかく、長編では息切れしてしまう。
質疑応答
「サクラダ」はどこまでが最初から考えられていた要素で、どこからが後づけなのか
1巻はプロットも何もなかった。2巻以降は各巻で何が起こるか2行くらいにまとめてはいたが、そこに至るまでの経緯を具体的に考えていたわけではない。ただ、1巻時点で後に繋がるような種は蒔いておいた。これも書いた時は明確にどういう展開になっていくと意識していたわけではないけど、続刊を書いている途中に読み直すと「1巻でこいつはこういうことを言っているのだからこの後の展開はこうなるな」と自然に繋がっていく。
イラストについて、何か指定をすることがあるか。「サクラダリセット」のスニーカー版で、ケイの外見が少しずつ変わっていったことに対して、何か知っていたら教えてほしい。
自分の仕事は文章を書くことだと思っているので、基本的に指定をすることはない――編注:ここで高橋氏から、「階段島」の【ナド】については、現時点ではイラストは公開されていないが、ラフ時点でムーミンっぽいというかファンタジックすぎると思ったので河野先生が訂正をお願いした、と指摘があった――こういう例もあるので一概には言えないけど。
ケイの外見については、イラスト担当の椎名優先生から伺ったわけではないけど、元々悟ったような奴だったケイがシリーズが進むにつれてますます達観していく、その成長というか変化を表現してもらったのではないか。
自作で思い入れのあるものは
いつもは最新作がいちばん好きです、でお茶をにごしているが(笑、発表順ではデビュー作となる短編『
高橋氏への質問。「群青」は「サクラダ」のような小説を、と依頼したそうだけど、他の著作の名前を挙げての依頼というのはよくあるのか。また「サクラダ」のどのようなところが好きか
仕事の依頼のパターンは、作家による。例えばキャリア30年のベテランに、デビュー作のような作品を、と依頼することはまずしない。河野さんに「サクラダ」のような小説を、と依頼したのはまず私が読みたかったから。また、河野さんの「サクラダ」後のキャリアでその系譜の作品を執筆していなかったから。「サクラダ」は全てを書いていない、「行間」を残しているのが好き。
創作する上で、外で色んなことに直接触れるのと、例えば部屋にこもって哲学書を読んでいる、というのはどちらが重要か
経験は大事だが、経験の内容は問わない。海外でボランティアしてましたとかでなくとも、例えば
先ほどの講義で触れなかった『モモ』と『ハルコナ』について、これだけは語っておきたいというのがあれば
『モモ』と『ハルコナ』はどちらも少女VS社会という図式が描かれているが、『モモ』は児童を対象にしているので、最終的に社会に少女が勝つ。『ハルコナ』はもうちょっと上の年代――編注:『ハルコナ』は『群青』と同じ新潮文庫nexからの刊行で、この時高橋氏に想定している対象年齢を聞いたところ、20代、30代? とのこと――を狙っているので、社会というのが絶対に倒せないものとしてあって、その中でどう生きるのか、というのが描かれている。同じテーマでも、想定する読者が違うとそういうところが違ってくる*6。
秋田禎信「エンジェル・ハウリング」が好きで『シリアルバレット・オイタナジー』という二次創作のような作品を書いているが、秋田先生について
http://ncode.syosetu.com/novelview/infotop/ncode/n8320bn/
秋田先生については語りだすと長くなる。自分の中で、
個性的なキャラクターの台詞回しはどのように思い浮かぶのか
台詞回しには登場人物の生き様が如実に表れるので、キャラクターの哲学に忠実でありさえすれば、台詞回しは自然とそれに沿ってくる。必ずしも特徴的な台詞回しを考える必要はない。
頭のいいキャラクターが多いと思うが、執筆している時に注意する点は
「頭のよさ」を表現するには二つの方法があって、一つは何事も断言してしまうこと。もう一つは色んな可能性に言及すること。ある質問に対してAとBという回答があり、作中ではAという回答を選択する。するとBが正しいと思っている読者は「Bはどうなんだ」となるけれど、そこでBにも言及しておけば、「このキャラは頭がいいんだ」と思ってもらえる。このあらゆる可能性に言及する方が、自分としては楽。
物静かな主人公が多いように思うが。
自分の小説の地の文は視点人物の思考であるという縛りがある。三人称でも一人称っぽい。よって
書きにくいキャラクターというのはいるか
人間的なゆらぎが許されないキャラクターというのは苦手。「サクラダ」3巻に登場する過去の春埼美空は自分のルールを厳守する人間だったので、書いている側としても口調一つ間違えるわけにはいかなかった。
小説以外で好きなもの/影響を受けたものは
音楽では
文章のリズムをかなり重要視しているように感じたが、漢字と平仮名の使い分けについてどう考えているか
漢字にすると単語の区切りが分かりやすくなる。また音のリズムというより、ぱっと見たときの視覚的なリズムを気にして漢字を平仮名にひらくことはある。
好きな色とその理由
今は群青が好き。自作で書いた物事を好きになるというのは結構ある。だから、これから「階段島」シリーズが進んでいったらどんどん好きな色が増えていくのではないか(笑 それと、緑とオレンジ。緑はその言葉の持つ柔らかさと生命の強さみたいな相反する(? イメージが好き。色とは関係ない話、私は猫も好きなんだけど、本物の猫よりは猫という言葉、自分が持っている猫のイメージが好きみたいなところはある。
孤独について。また孤独感を誤魔化す方法
孤独というのは何か別の要因があってカメラが「孤独」にクローズアップしているという状態で、「孤独」という状態と「孤独」でない状態が厳密に区分けされているわけではないと思う。ということは、カメラの視点をまた何か別のもので「孤独」からズラしてやればいいのでは。
閉会
質疑応答の時、多くの人が「自分はあの作品が好きで」みたいなことを言うんだけど、その時の印象だと「サクラダ」ファンと「階段島」ファンが半々か、むしろ「サクラダ」ファンの方がやや多かったくらいの印象。知名度的に「階段島」のほうが圧倒的に多いかなくらいに思ってたので、これは意外だった。その後は、サイン会をして終了。私もスニーカー文庫版「サクラダ」1巻にサインしてもらった。
前半の講義が90分、後半の質疑応答が90分。かなりの長丁場の講演会で、且つ充実した内容だった。河野先生、高橋編集長、中央大学文学会の皆さん、ありがとうございました&お疲れ様でした。
……なお、秋田禎信への思い入れについて質問したのは誓って私じゃないですよ!
*1:の内、私が覚えているものを文章化している
*2:編注:秋田禎信は90年代から刊行している「魔術士オーフェン」シリーズが有名な作家で、河野先生は事あるごとに影響を公言している。『ハルコナ』は「階段島」と同じく新潮文庫nexから2016年に刊行された最新作
*3:編注:この辺りで、「一目惚れというのは映像媒体ならいいけど内面を描く小説では王道ではない、みたいなことをゆっていたような気がする。ただこれを「階段島」とどう絡めていたかは失念
*4:編注:結末から逆算して?
*5:編注:何故美しいかについて、「動作は視覚的要素。自殺の中のより純粋な一点に辿り着く精神的自殺。ノイズが減る」というメモを他の参加者の方から戴いた。確かにそんなことをゆってたと思うけど、自分の中でうまく咀嚼できていない。高橋氏は「理屈を越えたところの作家性」と評していた
*6:編注:ここはかなり単純化されているけど、時間オーバーにならず講義の方で取り上げたなら、もう少し込み入った話になったと思う
*7:創作者として?