周回遅れの諸々

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なつかしの異世界転生・召喚:不由美とロジャーの「魔性の子」 異世界は遠きにありて思ふもの

アメリカのSF作家ロジャー・ゼラズニィの著作に、Changering(1980)というファンタジー小説がある。赤子の頃、神話的な異世界と20世紀の地球で互いに「取り替え」られた、二人の男をめぐる物語である。邦題を『魔性の子』という。

強大な魔力を持ち、長年に渡ってロンドヴァルに君臨した魔王デットが、不意討にたおれた。魔王の血を継ぐただひとりの赤児は、すんでのところで命を助けられ、老妖術使いモーの手で、遠い昔に魔法が忘れ去られた世界、すなわち地球の技術者の赤子と取り替えられた。ふたりの子供は何も知らず、すくすくと育ったが、運命の影は密かに忍び寄っていた。


魔王の息子であるポールは地球で、技術者の息子であるマークは異世界で、それぞれ義理の両親に育てられた。彼らは魔力と科学技術という、自分たちの育った世界では異質な力を持っていて、それは一種の才能だったが、うまく周囲に適応できない要因ともなっていた。やがてマークの科学技術は異世界に災厄を及ぼすようなものへと変わり、彼を止めるためポールは生まれ故郷へと誘われる。


お話の構造は、ヨーロッパの伝承「取り替え子」に貴種流離譚を絡めたようなものだ。主人公とは別に異世界に召喚された人物を配置することで、主人公のオルタナティヴな可能性を示唆する。これは例えば渡瀬悠宇の「ふしぎ遊戯(1992)でも見られたものだけど、本作では別の世界に流されるという状況自体で対比を生み出す。



マークははっきり言って貧乏くじを引かされたキャラである。ポールの代わりに異世界に連れてこられ、村人たちの生活を便利にするために自動車を開発してもその技術は理解されず。神話的な世界に科学技術の粋を凝らした天を衝くような摩天楼を建て、機械の兵士たちに武装させて孤独な王と成り果ててしまう。唯一の理解者であった幼なじみの声も届かない。


ポールは、物心つく前に「取り替えられた」男として、それでもマークと分かり合えたかもしれなかった。マークの幼なじみは異邦人としての二人の共通点を指摘し、また恐れてもいる。しかし結局は実父ゆずりの魔法を、マークの帝国に向けることになってしまう。



ゼラズニィの『魔性の子』からタイトルを取ったと思われるのが、小野不由美魔性の子(1991)だ。タイトルと異世界トリップものというだけならまだ偶然かなとも思ったけど、小野自身が影響を受けた作家としてゼラズニィの名前を挙げてるし本文中に「取り替えっ子」への言及もあるので、まあ確定なのかなと。自分の著作と同じタイトルの小説があるので読んでみようってなった可能性もあるけど。以下は海外でのインタビューから。

私は本を書き始めたすぐ後に、C・S・ルイスのナルニア国ものがたりロジャー・ゼラズニイのアンバーの九王子を知り、その中に私がたどり着きたいと努力している種類の理想的なファンタジー小説のシリーズを見出した事もありますね。


http://shirouto.seesaa.net/article/124576955.html


小野の『魔性の子』は、和製ファンタジーの代表作十二国記の序章的な位置付けにある。現在刊行中の完全版でははっきりとシリーズの中に組み込まれているけど、元々は独立した一冊として刊行されたものなので、片方を知らなくとももう片方を楽しむのに支障はない。

教育実習のため母校に戻った広瀬は、教室で孤立している不思議な生徒・高里を知る。彼をいじめた者は“報復”ともいえる不慮の事故に遭うので、“高里は崇る”と恐れられているのだ。広瀬は彼をかばおうとするが、次々に凄惨な事件が起こり始めた。幼少の頃に高里が体験した“神隠し”が原因らしいのだが…。彼の周りに現れる白い手は?彼の本当の居場所は何拠なのだろうか?


第1回で取り扱った「日帰りクエスト」は、来る異世界召喚に備えて日々準備を怠らない女子高生が主人公だった。なんの取り柄もない私がある日突然異世界召喚→楽しい! というお約束の流れを逆転させたところに面白みがあったわけだ。第2回の「覇壊の宴」では、既にちょっとした海外旅行くらいの気軽さで異世界に行けるようになっていた。


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……当然だけど、私たち一般人は「ここではないどこか」へ渡ることなど滅多にない。少なくとも、そう信じている。だからなんとか現実でやっていこうとする。では、身近に実際異世界に行った経験のある者がいたらどうだろうか?


広瀬は、学生時代どうしても学校に馴染めなかった。そんな彼が教育実習生として母校に来ることになったのは、青春のやり直し、という意味があったのかどうか。卒業してしまえば「異世界」同然の学校で、広瀬は高里と出会う。ポール/マークと違い、「故国喪失者」としての同胞意識から、二人は順調に互いへの理解を深めていく。……多くの第三者からはそう見えただろう。場になじめない学生に、かつての自分の孤独を見出し、庇い、導いていく大人。健全な学園ものにもなりうる構図だ。しかし、高里の特異性が本物であると分かり、その背後に別の世界を幻視するにつけ、むしろ広瀬のほうが高里にずぶずぶと傾倒していく。


麒麟」「蓬山」「白汕子」「延王」……記憶の中に見え隠れする断片的な言葉を広瀬と高里は探る。その描写でもって読者を別の世界に惹きつける小野の手腕は見事である。広瀬はそういった単語に触れる度、厭世的な面がますます露骨になっていく。高里を保護するという名目で下宿に連れて帰って二人で生活するその様はどこか妖しく、閉塞的で、BLっぽさすら漂っている。


「ここではないどこか」というモチーフは、児童向けで多く扱われてきたし、いい年してそんなことにかかずらってる奴は白眼視されてきた。しかし、本作ではそういった誘惑は年齢を問わないのだ、と突きつけてくる。広瀬という大人の隣に、彼が同胞と見る、しかしはっきりと彼とは違う高里という子供を置くことで、広瀬の弱さは際立ってくる。同じ時間を生き、一歩間違えれば互いの立ち位置が逆転していたゼラズニィの『魔性の子』と比べると、二人の間の断絶は歴然としている。


なるほど広瀬は思春期の厭世感からいまだ抜け出せない「子供」ではあった。しかし一方では尊敬する恩師がいて、彼の背中を見たことが教師を目指す一因にもなっていた。作中では高校の生徒ともうまくやっている。案外、いい先生、いい大人になったのではないか。


「大の大人」の選択の責任を他人に押しつけるのは卑怯だ。しかし、人生の節々でふと「ここではないどこか」への渇望が湧き出てくる瞬間、というのは確かにある。作中の「触」のように、全てを洗い流してどこかに連れて行ってくれる波に身を委ねたい瞬間が。でも、自分は誰かに見送られるより見送る側だという確信がある。その切実さが分かるから、この物語は胸を打つ。たとえ「十二国記」本編が完結しなくとも、それはこの先も変わらないだろう。

帰したくなかった。自分が帰れないのなら、せめて誰もが帰れないままでいて欲しかった。
人は誰も何かしら異端だ。身体の欠けた者、心の欠けた者、そんなふうに誰もが異端だ。異端者は郷里の夢を見る。虚しい愚かな、けれども甘い夢だ。


なお本作を気に入った人には、秋田禎信『ベティ・ザ・キッド』(2010)、谷山由紀『天夢航海』(1997)をおすすめしておきたい。どちらも、「彼岸の存在を知り渡航を切望しながらそれが叶わなかった」人々を描いた物語である。



※この文章は一年前、書評サイトシミルボンに掲載したものを加筆修正したものです。

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